わすけ写真ギャラリー
わすけのマスターの自伝
1、私が22年前にわすけを始めたきっかけについて・・、
私は大学を卒業してから50歳までの28年間、西武百貨店
の100%子会社のアパレル小売業の会社で働いていました。
しかし、2003年に親会社の大リストラがあり、不採算の
子会社のうち数社が清算になり、私のいたアパレルの会社も
清算になり、社員は2月末で全員解雇になりました。
50歳にして初の失業を経験することになったのですが、
特にスキルもないので再就職は無理だからなんか自分でやる
しかないよな・・・・、自分でやるには食い物屋だな、でも
ラーメン屋とかそば屋は差別化しずらいし、そうだ牛タン屋
なら何とかなるかもな・・・でもまずは修行だな。
という事でたまたま八丁堀に和助と言う牛タン屋があること
を知り5月のGW明けから働かせてもらうことになりました。
ところが創業から2年めだった和助は売上不振で潰れそうな
状態だったので<この店を買ってくれないか><いいっすよ>
と言うことになって修行で入って1か月も経たない6月1日には
憧れの牛タン屋のオーナーになっていました。
更に、仙台太助の創業者の弟子の板前さんがいて、1年間は
指導してくれることになったのですべてを教えてもらいました。
店名もひらがなのわすけに変え、再スタートしたのですが、
ボチボチお客様がつき始めた年末のクリスマスイブに絶望的な
事件が起こったのです・・・・つづく・・・。
********************************************
2、店を始めてから半年後に起きた絶望的な事件とは??
2003年12月24日のクリスマスイブに狂牛病(BSE)
の影響でアメリカ産の牛肉の輸入が禁止になりました。
アメリカからの牛タンが入らなければ元々は味にこだわるので
使わない!と宣言していたはずのオーストラリア産の牛タンを
使うしかなくなりました。
値段もそれまでアメリカ産がキロ800円、オースト700円
だったのに、どんどん値上がりして1年後には元々の値段の
5倍のキロ4000円にまで高騰してしまいました。
今どきのキャベツが200%や小麦粉が150%とかなんて
可愛いもので、主力の牛タンの原価が5倍では死活問題です。
元々の売上は大したことないのに原価が5倍にもなったもの
だから、当然大赤字が毎月続くことになりました。
会社都合の清算だったので多少は多めの退職金はもらっていた
のですが毎月の大赤字でたちまち運転資金は底をついてしまい、
あとは銀行他あちこちからの借入が膨らむばかりでした。
****************************************
3、牛肉輸入禁止のピンチを乗り切るために・・、
結局アメリカ産牛肉の輸入禁止は2年以上も続くことになり、
潰れなかった事が不思議なのですが、今でも店があると言う事
は何とか苦境を乗り越えてきた・・・という事になります。
対策としては売上高に占める牛タンの比率をできるだけ下げる
為になるべくラムやハラミや豚を売るようにして、牛タンを
追加注文しようとするお客様の事を脅かしたりして・・(笑)。
でも潰れることなく経営を続けて来れた一番の理由は始業から
1年以内にこのメールの配信をやり始めて、常連様に支えて
もらうことができた為であることは間違いありません。
2005年に牛肉輸入が再開になっても急には牛タンの値段は
下がらなかったけれど、何とかやっているうちに2007年に
突然、売上の好調期がやってきました。
2008年はさらに絶好調で今振り返っても羨ましいくらいの
売上だったのですが、不思議なことに裕福になった記憶が全く
ありません。借入を大幅に減らすだけで終わったようです。
それでも毎年ドライバーとパターを2、3本ほど買い換えて
いたので今よりは少しだけゆとりがあったようです。
ちなみにヤフオクで売ったり買ったりなのでドライバーは現在
1本しか持っていません(パターは10本くらいあるけど)。
その後、リーマンショックによる不景気があり再び売上低迷期
になり、上がったり下がったりしながら今日に至っています。
売上が悪いのを天気と景気のせいにしてはいけないという事は
会社員時代には上司からさんざん言われましたが、自営業では
上司がいないので景気のせいで売上不振になった事にします。
つづく・・・次回は会社員時代の話です。
*************************************
4、会社員だった頃の話です・・・、
私は22歳から50歳までの28年間を西武百貨店の子会社の
アパレル小売業(要するに洋服屋)で勤務していました。
全盛期の1988年頃は紳士服・婦人服合計で全国に300店
以上の店舗がパルコや駅ビルの中にありました。
その中で私は最初の20年間は婦人服店の仕事で岡山、福山、
札幌、宇都宮など地方の店長や地区長などをやっていました。
宇都宮店長兼任東北ブロック長だった時には仙台にも月に1回
程度は出張して店長に指導して回っていた時期がありました。
仙台に行くたびに仙台店の店長を誘って毎回食べに行っていた
のが当時お気に入りの牛タンの太助や喜助です。
その事が将来の自分の人生に深く影響することになるとはその
当時はまさか思いもしませんでした。
1993年の話。宇都宮勤務で40歳になり、婦人服専門店の
店長業務に飽きていて、現場よりも本社勤務の方が良いかな?
と思っていた所に、本社の経営管理課からお誘いがあったので
飛びついて池袋の本社に移動しました。
ところがそこで任された仕事は親会社の西武百貨店に提出する
営業報告書や経営報告を作るだけの仕事で現場での売り上げが
上がったとか下がったとかの仕事に比べたらつまらない仕事で
毎日だらだらと日課をこなすだけの日々を送っていました。
でも、たった一つ現在まで役に立っていることは報告書を作る
仕事の中でEXCELを覚えることができた事です。
そんなある日、またまた人生が変わるくらいのビッグチャンス
がやって来ることになりました。・・・続く・・・・
******************************************
5、本社勤務でつまらない仕事をしていた時にきたチャンス。
当時の会社の一番の基幹店であったメンズのマルセル新宿店が
(伊勢丹の隣の好立地、B1~3階)大赤字で回復が不可能に
なったために当時は同じセゾングループだった良品計画の協力
を得て無印良品のフランチャイジーをやることになりました。
社長 <高橋、お前が責任者をやらないか?>
私 <私以外に適任者はいないと思います>
そのようなやり取りがあった後、1995年4月2日開店の
無印良品新宿店の初代館長になりました。
と言っても無印良品の仕事は全くわからないので良品計画から
優秀な店長に1年間出向してもらえることになりました。
今では無印良品の大型店がたくさんありますが30年前当時は
200坪の新宿店はトップクラスの大きさでさらに立地の良さ
と出向してもらった店長の優秀さのために開店と同時に直営店
を差し置いて無印良品の売上高一番店になってしまいました。
今からちょうど30年前の1995年、阪神淡路大震災と地下
鉄サリン事件のあった年です。
なんで覚えているかと言うと、良品計画に最初の打ち合わせに
行った1995年1月17日に震災が起きて、打ち合わせの前
に関西が大変なことになっていますねという話題になったため。
サリン事件は無印良品の研修の為、草加から日比谷線で銀座店
に通っていた部下が事件よりも1本早い地下鉄に乗っていた為
に命が助かったという事があった為です。・・・つづく・・・
**************************
6,無印良品の館長を任されて幸せを味わったけど・・・?
今では200坪の無印良品の店は全く大型店ではないのですが、
30年前には大型店で、なおかつ新宿伊勢丹の手前と言う日本中
でもこれ以上ない程の好立地にしかも卒業&進学・就職のための
移動需要のピークである4月2日に開店したものだから大変です。
当時の無印良品の店舗の一日の売上新記録をいきなり初日に更新
する開店をしたもので・・・・社長は喜び、良品計画の皆さんも
ビックリする様なロケットスタートでしたが現場はど素人だらけ
のスタッフで開店したものですからそりゃあパニックです。
今日中に発送しなくては間に合わない配送伝票が10cmくらい
溜まっていて数日後には当然届かない為のクレームの嵐、嵐、。
中野や高円寺方面には毎日謝罪の為に出かけまくりでした。
そんな苦労もあったけど、結果的に初年度から売上絶好調で会社
の他の部門の赤字を新宿店だけで全部カバーして会社の経常利益
が黒字化するほどの貢献をしたものだから社長からは毎日昼飯を
ごちそうしてもらえるし、他の業態の部長からはねたまれるほど
の幸運な日々を4年間は送ることになりました。
会社生活28年の後半の8年間が無印良品の責任者でしたが幸せ
だったのは最初の4年間だけで、後半の4年間は針のムシロに
座ることになりました。
*******************************
7、無印良品8年間の後半は楽しくない4年間でした・・・
無印良品新宿店の当初は地下1階から地上3階までを借りていて
地下一階は事務所&倉庫として使って効率良く回していました。
ところがたまたまそのビルの8階が空く事になり、事務所・倉庫
を8階に移して地下一階も売場にすればもっと売上が上がるので
はないか?いう事になりました。
社長は乗り気でしたが私は1フロアが増えても売上はたいして増
えないだろうし家賃・人件費他経費が今以上に高くなって、逆に
儲からなくなると思うのでやめた方が良いと言いました。
でも、イケイケの社長は8階を借りて事務所・倉庫を8階に移動
して地下1階を売場にすることを選びました。
結果的にはちょうど無印良品の売上苦戦期と重なり、新宿店の
売上も伸びないばかりか低迷することになり、さらに1フロア分
の賃料も人件費も他の経費も増える事になり、利益は大幅に減少
することになりました。
それでも社長の判断が悪かったという事にはならず、売上が上が
らないのはお前の努力が足りないからだ!!と言われ会議の度に
社長からいじめられる状態になりました。
お前は過去の成功体験から抜けられていないとか・・・、うっせ
えわ!!。本体の無印良品の売上が苦戦している時期だったのに
フランチャイジーが別の施策をできるわけないし、もう無理!!
こんな会社、辞めてやる!!!と思っていたけれども自分の意志
で辞めなくても、自動的に辞める事なったのです。 続く
*************************************
8、自分の意志で辞めなくても自動的に会社をやめる事に・・、
親会社の西武百貨店が西洋環境開発の大赤字など大きな経営判断
の失敗により債務が莫大になりみずほコーポレート銀行他多数の
金融機関に2300億円の債権放棄をお願いする事になりました。
それに伴い債務超過の不採算子会社を何社も清算することになり
債務が膨らみすぎていたわが社も清算になりました。
店舗とアルバイトは良品計画に引き取ってもらいましたが、中年
の社員は当然解雇となり、50歳にして人生で初めての失業を
経験することになり、このシリーズの第1回目につながります。
会社都合による清算なので個人別に高額(らしい)な再就職斡旋
の為の会社をつけてくれて、パソコンスキルや今までに経験して
いないいろんな研修を受けることができました。
エクセルは今までの仕事で使っていたので習うつもりはなかった
けど、ワードとパワポはほとんど使ったことがなかったので一応
研修を受けてみましたが、実戦で使ったことがないので未だに
全く使えません。
でもエクセルだけは良く使っていたので、自営業になっても使用
することができて、わすけのメニューや他に壁に貼ってある写真
入りのPOPや売上集計等あらゆる事に活用しています。
次回は無印良品8年間の思い出などを・・・、
***************************
9、無印良品の責任者で楽しかった思い出
28年間の会社員人生の後半8年間は無印良品のフランチャイズ
の責任者をやりましたが楽しかった最初の4年間のエピソードを
いくつか語ってみたいと思います。
1995年、無印良品のフランチャイズを始めた当時は良品計画
が売上絶好調だったために直営店店長を研修のためにアメリカや
ヨーロッパの小売業の視察に連れて行っていました。
最初の年は当然フランチャイジーまでは連れて行ってくれなくて
直営店の店長だけが対象だったので羨ましく見ていたのですが、
2年目の1996年からは成績優秀なフランチャイジーの責任者
も連れて行ってくれることになり、当然売上一番店の新宿店の
館長の私も招待していただくことになりました。
1年目はニューヨーク、2年目はロサンゼルス&ニューヨーク、
3年目はロンドン&パリ・・しかも、店長の研修なのにホテルは
マリオット・マリーナ・デル・レイ、やシェラトン・マンハッタ
ンなど良いところばかりでした。
オフィスデポ、ホーム・デポ、COSTCO、クレイト&バレル
、ポッタリーバーン、リミテッド、ウォルマート、ショートヒル
ズ・ファクトリー・アウトレット等、当時はスマホやデジカメが
ない時代だったのでコンパクトなフィルムカメラで視察してきた
ストアの内部を細かく写真撮りをして、当時の良品計画の社長に
提供して喜ばれた記憶があります。
その後、幕張にコストコとフランスのカルフールと言うスーパー
ができたので早速視察に行き、カルフールは良いけどコストコは
日本人のライフスタイルには合わないので流行らないだろうな、
と言うのが私の感想でしたが、逆にカルフールは数年で撤退し、
コストコは大繁盛してどんどん店舗が増えています(笑)。